午前11時半――
コルトの町の中心部に到着すると、ルノーは馬車を止めて扉を開けた。
「町に着いたよ、イレーネ」
そして手を差し伸べた。
「ありがとう」
ルノーの手を借りて馬車を降りたイレーネは目を見開いた。
「まぁ、ここは……」
「そうだよ、イレーネが来たがっていた職業紹介所だよ」
「まさか、ここに連れてきてくれるとは思わなかったわ。ルノーは仕事が忙しい人だから、職場の近くまでで良かったのに」
ルノーが務める弁護士事務所は職業紹介所よりもずっと手前にあるのだ。
「何言ってるんだ。そんなはずないだろう? それに君のことだ。恐らく、途中で降ろせばここまで歩いてきていたんじゃないか? ドレス姿の女性を歩かせるわけにはいかないからな。大事なドレスを汚してしまったら困るのは君だ」
「あら……分かっちゃった?」
肩をすくめるイレーネ。
イレーネは薄紫色のツーピースのデイ・ドレス姿だった。このドレスは数少ない彼女のドレスで、面接に挑むための外出着である。「大切なドレスまで大分手放してしまっただろう? もとからシエラ家は貧しい男爵家だったから、君は社交界デビューだって出来なかったじゃないか……今ならまだ間に合う。爵位を手放して、高額で金持ちの商人にでも売ってしまわないか? 俺に任せてくれれば、上客を紹介出来るぞ?」
屋敷を手放すことに反対のルノーは最後の説得を試みる。
「だから、それは出来ないって言ってるでしょう? ルノーは知らないの? 爵位があるだけで、好条件の仕事を紹介してくれるのよ?」
「そんなことくらいは知ってる。仮にも俺は弁護士だぞ?」
少しだけムッとした表情を見せるルノー。
「幼馴染のあなたが私を心配するのは分かるし、その気持は嬉しいけれど……私は祖父の遺言を守りたいの。それじゃ行くわね。良い仕事が斡旋してもらえることを祈っていて?」
「……分かった。行って来いよ」
イレーネは笑顔でルノーに手を振ると、ガラス張りの回転扉をおして職業紹介所へ足を踏み入れた――
****
「え〜と……イレーネ・シエラさん……現在二十歳ですね?」
イレーネの前にメガネを掛けた男性職員が、彼女の履歴書に目を通している。
「はい、そうです」
「……あぁ、なるほど……シエラ家……あまり聞いたことはありませんが男爵令嬢なのですね?」
「確かにあまり名門ではありませんが、これでも貴族令嬢の嗜みは身についています。それに私は二年間エステバン伯爵家でメイドとして働いていたこともあるので、一通りの仕事は出来る自信があります」
社交界デビューは出来なかったものの、祖父から一通りのマナーは教えてもらっている。それにこの町でエステバン伯爵家を知らない者はいない。
「確かに履歴書に記されていますね……それで、今回は住み込みの仕事を探されているのですね? しかもできるだけ早急に」
男性職員は求人票をパラパラとめくる。
「はい。今住んでいる屋敷は訳合って住めなくなりますので、住み込みの仕事でないといけないのです」
「……なら、この求人はいかがですか?」
男性職員は一枚の求人票に目を止めると読み上げた。
「一年間という期間限定ではありますが、とても給金の高いメイドの仕事が入っていますよ。雇用先はマイスター伯爵家で、未婚女性を募集していますね。もちろん住み込みで……月給は三十万ジュエル以上を出してくれるそうです」
「え!? 三十万ジュエルですか!? 衣食住保証でですよね!?」
イレーネがこの求人に飛びついたのは言うまでも無かった――
「もっとその詳しい求人内容を教えていただけないでしょうか?」身を乗り出すイレーネに男性職員はメガネをクイッとあげた。「はい、良いでしょう。え〜と、まず場所ですが……『デリア』という町ですね。この町から汽車が出ていますね」「『デリア』なら聞いたことがあります。あの町はここよりもずっと近代化の進んだ町ですよね? 確か汽車で三時間程ではなかったでしょうか?」「ええ、その通りです。勤務時間は……おや? 一応二十四時間体制とはなっておりますが、基本夜の勤務は殆ど無いみたいですね。けれど夜勤が入る場合は別途給金を上乗せしてくれるそうです。仕事内容は面接のときに教えてくれるそうですが……う〜ん……いかがいたしますか?」男性職員は少し首をひねりながらイレーネに尋ねる。「はい、構いません。ぜひ面接を受けさせて下さい」「ええ!? ほ、本当に受けるのですか? 全く仕事内容が不明なのですよ? しかも奇妙な条件ですし……」「面接に行けば詳しく仕事内容を聞かせてくれるのですよね? すぐに紹介して下さい」今にも住むところを失いそうなイレーネにとって、衣食住保証付きの高額給金の仕事はとても魅力的だった。あれこれと選んでいる時間も手間も惜しかったのだ。「分かりました……それでは紹介状を書きましょう。少しお待ち下さい」男性職員は傍らに置いた便箋に、スラスラと文章を起こすと封筒に入れてイレーネに差し出した。「はい、ではこちらの手紙を持ってマイスター伯爵家に渡して下さい。面接日時は特に細かい決まりはなく、平日の十時から十七時までの間に伯爵家に直にお越し下さいと書かれておりますね」「え!? そんないい加減……いえ、そんな大まかなことで宜しいのでしょうか?」イレーネは驚きで目を見開く。「もしかすると先方も早急に人手を捜しているのかもしれませんね。何しろ二百キロ以上も離れたこの町にも求人を出している程ですから」「そうですね。色々なにか事情があるのかもしれませんね。妙な質問をしていまい、申し訳ございません」謝罪の言葉を述べるイレーネ。「いえいえ、そんなお気になさらないで下さい。あ、そう言えば先程の求人欄で気になる箇所が書いてありました」「え? 本当ですか? 教えて下さい」イレーネは再び、身を乗り出した。「もちろんです。え〜と、口が固い方……秘密保持出来る方を望む、とあ
女の子にお駄賃として三百ジュエルを渡してしまったイレーネ。少しでも節約する為に、辻馬車を使わずに屋敷まで歩いて帰ってきた。「ただいま〜」誰も待つ人のいない古びた屋敷に帰ってくると、食卓用の椅子に腰掛けた。「ふ〜疲れたわ……足も痛いし……」履いていたショートブーツを脱ぐと、足のマッサージをしながら壁に駆けてある時計を眺める。「え〜と、今が十時十五分だから……ええ!? 四十五分も歩いてきたのね? どうりで疲れたはずだわ……」ため息をつくとイレーネは履きなれた室内履きに足を通し、二階にある自室に向かった。――カチャ扉を開けて室内に入ると、イレーネは周囲を見渡す。「……本当に何もない部屋になってしまったわねぇ」言葉通り、この部屋にあるのはベッドと小さな文机、それに壁にかけた姿見に衣装箱だけだった。イレーネがまだ子供だった頃は、この部屋はもっと賑やかだった。女の子らしいインテリアで素敵な家具に溢れていた。それに安い賃金でも文句一つ言わずに笑顔で働いてくれていた使用人たちも大勢いた。けれど祖父が病に倒れてからは賃金すら払うこともままならなくなり、全員に辞めてもらうことに決めた。その際彼らに支払える退職金を作るためにイレーネは家財道具の殆どを売り払い、何とか全員にわずかばかりの退職金を工面することが出来たのだった。その後も祖父の治療費の為に売れそうな物は売払い……すっかりがらんどうの屋敷になり、今に至る。「でも、いいわ。これなら引越し準備も特に必要ないもの。さて、明日の準備をしなくちゃ」イレーネは自分に言い聞かせると、早速出立の準備を始めるのだった――**** 翌朝六時――濃紺のボレロとスカート姿のイレーネが姿見の前に立っていた。「うん、いい感じね。我ながら洋裁の腕前が上がったわ。これが以前はドレスだったなんて人が知ったら驚かれるでしょうね」満足そうにくるりと鏡の前で一回転する。昨晩夜なべをして、外出着用の洋服に作り直したのだ。「どうせ、ドレスを持っていても着ていく場が無いのだもの。宝の持ち腐れだったから丁度良いわね」そしてイレーネはボストンバックを持つと屋敷を後にした――****午前七時半――「ふ〜……やっと汽車に乗れたわ」三等車両の空いている座席に座るとイレーネはため息をついた。今朝も彼女は路銀を浮かせるために屋
約三時間かけてイレーネは大都市『デリア』に到着した。駅前の広場は綺麗な石畳で舗装され、『コルト』ではまだ見たこと無い路面列車が走っている。立ち並ぶ建物はどれも石造りで整然と立ち並び、町を歩く人々は誰もがどこか忙しそうに見えた。「本当にここは近代化された町なのね。まぁ、あの大きな建物、なんて背が高いのかしら。十階建てはありそうだわ。あ、あれはもしかすると『車』というものかしら? すごいわ!」ボストンバッグ片手に目の前を走り去っていった黒い車にイレーネは目を見開いた。彼女が住む町は片田舎だ。このような大都市に来るのは生まれて初めてだったので目にする物すべてが新鮮に映った。その時。ボーンボーンボーン駅前にある時計台が十一時を告げる鐘を鳴らした。「あら、いけない。町の光景に見惚れている場合じゃなかったわ。早くマイスター伯爵家の邸宅に伺わないと。お昼時に訪ねては迷惑に思われているかもしれないものね。えっと……伯爵家はここから歩いていけるのかしら?」ポケットから伯爵家の番地を書いたメモを取り出した。「う〜ん……駄目だわ。さっぱり分からない……まずは交番を訪ねてみましょう。確か向こう側に交番があったはずだわ」そこでイレーネは交番へ向かった――****赤い屋根の石造りの交番はすぐに見つかった。「すみません、少々宜しいでしょうか?」イレーネは交番の扉を開けた。「はい、どうされましたか?」カウンターの向こう側のデスクに向かっていた警察官が立ち上がる。「あの、実はマイスター伯爵家に伺いたいので行き方を教えていただけませんか?」「マイスター伯爵家ですか? ええ、教えてあげましょう。あのお屋敷は有名ですからね」まだ年若い青年警察官は笑顔で返事をする。「マイスター伯爵家に行くのであれば、馬車かタクシーを使うのが一番です。路面列車に乗るのでしたら、一番乗り場の『スザンヌ通り』で降りればすぐ目の前に広大な敷地に囲まれたお屋敷がありますよ。そこがマイスター伯爵家です」「いえ、そうではありません。徒歩で向かいたいので道順を教えて頂けないでしょうか?」「ええ!? まさか歩いて行かれるつもりですか!?」大袈裟な程驚く青年警察官。「はい、そうです。大丈夫、足なら自信があります」頷くイレーネに警察官は困った表情を浮かべる。「う~ん……悪いことは言
イレーネは交番の椅子に座り、青年警察官が馬を連れて戻ってくるのをじっと待っていた。そこへ……「どうもすみません、お待たせいたしました」扉が開き、声をかけられたイレーネは振り向いた。外には一頭の栗毛色の馬の姿がある。「いえ、そんなに待ってはおりませんので」「そうですか? では早速行きましょうか?」青年警察官は『巡回中』と書かれた立て札をカウンターに立てると笑顔を見せる。「あの……でも、本当によろしいのですか? お仕事中なのに……」申し訳なくて、イレーネは伏し目がちに尋ねる。「ええ、お気になさらないで下さい。困っている人を助けるのも警察の仕事ですからね」「はい。それでは恐れ入りますが、どうぞよろしくお願いいたします」「いいえ、気にしないで下さい」そして二人は連れ立って交番を出た。「では出発しましょう」イレーネの背後から馬にまたがった警察官が声をかけてくる。「は、はい。よ、よろしくお願い……します……」生まれて初めて馬の背に乗るイレーネが声を震わせながら返事をする。「あの? どうかしましたか?」「いえ……お恥ずかしい話ですが、馬の背中に乗るのが初めてなので……こんなに視界が高くなるなんて思いもしませんでした」男爵令嬢でありながら、落ちぶれた貴族。当然イレーネは乗馬など嗜んだことすらない。「そうだったのですか? それなら大丈夫です。後ろから支えてあげますから安心して乗って下さい。逆に怖がると、馬にまでその恐怖心が伝わってしまいますよ」「え? それは本当ですか? なら平常心を保たなければなりませんね」イレーネは背筋を伸ばすと、青年警察官は笑った。「アハハハ……なかなか面白い方ですね。では行きましょう」そして、二人を乗せた馬は常歩で町中を歩き始めた。****「ここが、この町で有名な美術館ですよ。週末になると大勢の人で賑わいます。駅からは真っすぐ行けば辿り着くので分かりやすいです。その向かい側にある大きな建物は洋品店です。有名なデザイナーがいるそうですよ」青年警察官はまるでガイドをするかのように、イレーネに町の案内をしている。「あんなに立派な美術館や洋品店があるなんて、さすが『デリア』の町は大きいですね」始めは馬を怖がっていたイレーネだったが、徐々に楽しい気分になってきた。今は町並みの光景を楽しむまでになっている。「
「こちらですよ。マイスター家の邸宅は」イレーネに声をかける青年警察官。「ここが……そうなのですか?」馬に乗ったまま、目の前に広がる光景にイレーネは目を見開いた。「ええ、そうです」警察官は馬から降りると、イレーネに手を差し伸べてきた。「さ、降りましょうか?」「恐れ入ります」イレーネは警察官の手を借りて、馬から降りると改めてマイスター伯爵邸を見つめた。石の壁がどこまでも続きそうな門。フェンスの扉の奥は綺麗に芝生が刈り取られた広大な敷地。馬車が通るための石畳が続く先に見えるのは三階建ての大きな屋敷が建っている。「すごい……なんて立派なお屋敷なのかしら。以前働いていたエステバン家よりもずっと大きいわ」思わず口に出ていた。「ええ、何しろマイスター伯爵家はここ、『デリア』でも名家ですからね。何でも近々、当主交代をすると広報誌に載っていましたよ」「そうだったのですか」(それでは、これから新しい当主になる方が雇い主になるのね)そんなことを考えていると、警察官が声をかけてきた。「それでは、私はここで失礼します。まだ仕事中ですから」「お巡りさん、本当にお世話になりました」「いえ。お役に立てて良かったです」そして再び青年警察官は馬にまたがると、手を振って去って行った。「ありがとうございました」イレーネも手を振って見送る。やがて、警察官の姿が見えなくなると門を振り返った。「こんな大きなお屋敷で、私のような田舎者が雇ってもらえるかしら? 心配だわ……いいえ、そんな弱気な事を言っては駄目よ。何しろここで雇ってもらえなければ私は最悪、宿無しになってしまうかもしれないわ。ここは堂々としていないと駄目よね!」自分自身に言い聞かせると、イレーネは背筋を伸ばす。そして門を開けてマイスター伯爵家の敷地に足を踏み入れた――*** 現在マイスター家の執事を務めるリカルド・エイデンは、今大変困った状況に置かれていた。 何故なら、それは……「ですから何度も申し上げたとおり、ルシアン様はまだお仕事から戻られていないのです。どうぞお引き取り願います」リカルドは応接間のソファに居座っている女性に、必死で訴えている。「いやよ! そんなこと言って、もう何日もルシアン様にお会いできていないわ。私に会わせないために嘘をついているのでしょう?」そして女性は腕組みすると
イレーネ・シエラは今、とても追い詰められていた――「一体どうするつもりなんだ? イレーネ。このままでは後半月でこの屋敷は差し押さえられるぞ?」イレーネと幼馴染。弁護士に成り立ての栗毛色の髪の青年、ルノー・ソリスの声が部屋に響き渡る。何故、彼の声が響き渡るかというと、この屋敷にはほぼ家財道具が無いからであった。「ええ、そうよね……どうしましょう。まさかお祖父様が、こんなにも借金を抱えていたなんて少しも知らなかったわ。そんなに派手な生活はしていなかったのに……」古びた机の上には書類の山が置かれている。イレーネはブロンドの長い髪をかきあげながら書類に目を通し、ため息をついた。その書類とは言うまでもなく、祖父……ロレンツォが遺してしまった負債が記された書類である。「イレーネ、おじいさんを亡くしてまだ三ヶ月しか経過していない君にこんなことを言うのは酷だが……もう爵位は手放して誰か金持ちの平民に買い取ってもらおう。そうすればこの屋敷だけは残せる」「ええ。そうなのだけど……お祖父様の遺言なのよ。絶対に男爵位だけは手放してはならないって」イレーネは祖父の遺した遺言書を手に取り、ため息をつく。「それはそうかも知れないが……住むところを失っては元も子もないだろう? 大体君は病気で倒れたおじいさんの看病をするために、仕事だって辞めてしまったじゃないか」現在二十歳のイレーネは花嫁修業も兼ねて、エステバン伯爵家でメイドとして働いていた。しかし、半年ほど前に祖父が病気で倒れてしまったために仕事を辞めて看病にあたっていたのだ。「仕方ないわ。ソリス家はお金が無くて使用人たちは全員暇を出してしまったのだから。私がお祖父様の看病をするしかなかったのだもの。それにお祖父様は子供の頃に両親を亡くした私を引き取って今まで育ててくれたのよ? 遺言を無下にすることは出来ないわ」「だけど、君は今まで必死になって頑張ってきたじゃないか。家財道具を売り払って、おじいさんの治療費にあててきただろう? その結果がこれだ。もうこの屋敷には売れるものすら殆ど残っていないじゃないか。それなのにまだ五百万ジュエル以上の借金が残されているんだぞ? どうやって返済するつもりなんだ」ルノーはすっかりがらんどうになった室内を見渡す。「銀行から借りるっていうのはどうかしら?」イレーネはパチンと手を叩い
「こちらですよ。マイスター家の邸宅は」イレーネに声をかける青年警察官。「ここが……そうなのですか?」馬に乗ったまま、目の前に広がる光景にイレーネは目を見開いた。「ええ、そうです」警察官は馬から降りると、イレーネに手を差し伸べてきた。「さ、降りましょうか?」「恐れ入ります」イレーネは警察官の手を借りて、馬から降りると改めてマイスター伯爵邸を見つめた。石の壁がどこまでも続きそうな門。フェンスの扉の奥は綺麗に芝生が刈り取られた広大な敷地。馬車が通るための石畳が続く先に見えるのは三階建ての大きな屋敷が建っている。「すごい……なんて立派なお屋敷なのかしら。以前働いていたエステバン家よりもずっと大きいわ」思わず口に出ていた。「ええ、何しろマイスター伯爵家はここ、『デリア』でも名家ですからね。何でも近々、当主交代をすると広報誌に載っていましたよ」「そうだったのですか」(それでは、これから新しい当主になる方が雇い主になるのね)そんなことを考えていると、警察官が声をかけてきた。「それでは、私はここで失礼します。まだ仕事中ですから」「お巡りさん、本当にお世話になりました」「いえ。お役に立てて良かったです」そして再び青年警察官は馬にまたがると、手を振って去って行った。「ありがとうございました」イレーネも手を振って見送る。やがて、警察官の姿が見えなくなると門を振り返った。「こんな大きなお屋敷で、私のような田舎者が雇ってもらえるかしら? 心配だわ……いいえ、そんな弱気な事を言っては駄目よ。何しろここで雇ってもらえなければ私は最悪、宿無しになってしまうかもしれないわ。ここは堂々としていないと駄目よね!」自分自身に言い聞かせると、イレーネは背筋を伸ばす。そして門を開けてマイスター伯爵家の敷地に足を踏み入れた――*** 現在マイスター家の執事を務めるリカルド・エイデンは、今大変困った状況に置かれていた。 何故なら、それは……「ですから何度も申し上げたとおり、ルシアン様はまだお仕事から戻られていないのです。どうぞお引き取り願います」リカルドは応接間のソファに居座っている女性に、必死で訴えている。「いやよ! そんなこと言って、もう何日もルシアン様にお会いできていないわ。私に会わせないために嘘をついているのでしょう?」そして女性は腕組みすると
イレーネは交番の椅子に座り、青年警察官が馬を連れて戻ってくるのをじっと待っていた。そこへ……「どうもすみません、お待たせいたしました」扉が開き、声をかけられたイレーネは振り向いた。外には一頭の栗毛色の馬の姿がある。「いえ、そんなに待ってはおりませんので」「そうですか? では早速行きましょうか?」青年警察官は『巡回中』と書かれた立て札をカウンターに立てると笑顔を見せる。「あの……でも、本当によろしいのですか? お仕事中なのに……」申し訳なくて、イレーネは伏し目がちに尋ねる。「ええ、お気になさらないで下さい。困っている人を助けるのも警察の仕事ですからね」「はい。それでは恐れ入りますが、どうぞよろしくお願いいたします」「いいえ、気にしないで下さい」そして二人は連れ立って交番を出た。「では出発しましょう」イレーネの背後から馬にまたがった警察官が声をかけてくる。「は、はい。よ、よろしくお願い……します……」生まれて初めて馬の背に乗るイレーネが声を震わせながら返事をする。「あの? どうかしましたか?」「いえ……お恥ずかしい話ですが、馬の背中に乗るのが初めてなので……こんなに視界が高くなるなんて思いもしませんでした」男爵令嬢でありながら、落ちぶれた貴族。当然イレーネは乗馬など嗜んだことすらない。「そうだったのですか? それなら大丈夫です。後ろから支えてあげますから安心して乗って下さい。逆に怖がると、馬にまでその恐怖心が伝わってしまいますよ」「え? それは本当ですか? なら平常心を保たなければなりませんね」イレーネは背筋を伸ばすと、青年警察官は笑った。「アハハハ……なかなか面白い方ですね。では行きましょう」そして、二人を乗せた馬は常歩で町中を歩き始めた。****「ここが、この町で有名な美術館ですよ。週末になると大勢の人で賑わいます。駅からは真っすぐ行けば辿り着くので分かりやすいです。その向かい側にある大きな建物は洋品店です。有名なデザイナーがいるそうですよ」青年警察官はまるでガイドをするかのように、イレーネに町の案内をしている。「あんなに立派な美術館や洋品店があるなんて、さすが『デリア』の町は大きいですね」始めは馬を怖がっていたイレーネだったが、徐々に楽しい気分になってきた。今は町並みの光景を楽しむまでになっている。「
約三時間かけてイレーネは大都市『デリア』に到着した。駅前の広場は綺麗な石畳で舗装され、『コルト』ではまだ見たこと無い路面列車が走っている。立ち並ぶ建物はどれも石造りで整然と立ち並び、町を歩く人々は誰もがどこか忙しそうに見えた。「本当にここは近代化された町なのね。まぁ、あの大きな建物、なんて背が高いのかしら。十階建てはありそうだわ。あ、あれはもしかすると『車』というものかしら? すごいわ!」ボストンバッグ片手に目の前を走り去っていった黒い車にイレーネは目を見開いた。彼女が住む町は片田舎だ。このような大都市に来るのは生まれて初めてだったので目にする物すべてが新鮮に映った。その時。ボーンボーンボーン駅前にある時計台が十一時を告げる鐘を鳴らした。「あら、いけない。町の光景に見惚れている場合じゃなかったわ。早くマイスター伯爵家の邸宅に伺わないと。お昼時に訪ねては迷惑に思われているかもしれないものね。えっと……伯爵家はここから歩いていけるのかしら?」ポケットから伯爵家の番地を書いたメモを取り出した。「う〜ん……駄目だわ。さっぱり分からない……まずは交番を訪ねてみましょう。確か向こう側に交番があったはずだわ」そこでイレーネは交番へ向かった――****赤い屋根の石造りの交番はすぐに見つかった。「すみません、少々宜しいでしょうか?」イレーネは交番の扉を開けた。「はい、どうされましたか?」カウンターの向こう側のデスクに向かっていた警察官が立ち上がる。「あの、実はマイスター伯爵家に伺いたいので行き方を教えていただけませんか?」「マイスター伯爵家ですか? ええ、教えてあげましょう。あのお屋敷は有名ですからね」まだ年若い青年警察官は笑顔で返事をする。「マイスター伯爵家に行くのであれば、馬車かタクシーを使うのが一番です。路面列車に乗るのでしたら、一番乗り場の『スザンヌ通り』で降りればすぐ目の前に広大な敷地に囲まれたお屋敷がありますよ。そこがマイスター伯爵家です」「いえ、そうではありません。徒歩で向かいたいので道順を教えて頂けないでしょうか?」「ええ!? まさか歩いて行かれるつもりですか!?」大袈裟な程驚く青年警察官。「はい、そうです。大丈夫、足なら自信があります」頷くイレーネに警察官は困った表情を浮かべる。「う~ん……悪いことは言
女の子にお駄賃として三百ジュエルを渡してしまったイレーネ。少しでも節約する為に、辻馬車を使わずに屋敷まで歩いて帰ってきた。「ただいま〜」誰も待つ人のいない古びた屋敷に帰ってくると、食卓用の椅子に腰掛けた。「ふ〜疲れたわ……足も痛いし……」履いていたショートブーツを脱ぐと、足のマッサージをしながら壁に駆けてある時計を眺める。「え〜と、今が十時十五分だから……ええ!? 四十五分も歩いてきたのね? どうりで疲れたはずだわ……」ため息をつくとイレーネは履きなれた室内履きに足を通し、二階にある自室に向かった。――カチャ扉を開けて室内に入ると、イレーネは周囲を見渡す。「……本当に何もない部屋になってしまったわねぇ」言葉通り、この部屋にあるのはベッドと小さな文机、それに壁にかけた姿見に衣装箱だけだった。イレーネがまだ子供だった頃は、この部屋はもっと賑やかだった。女の子らしいインテリアで素敵な家具に溢れていた。それに安い賃金でも文句一つ言わずに笑顔で働いてくれていた使用人たちも大勢いた。けれど祖父が病に倒れてからは賃金すら払うこともままならなくなり、全員に辞めてもらうことに決めた。その際彼らに支払える退職金を作るためにイレーネは家財道具の殆どを売り払い、何とか全員にわずかばかりの退職金を工面することが出来たのだった。その後も祖父の治療費の為に売れそうな物は売払い……すっかりがらんどうの屋敷になり、今に至る。「でも、いいわ。これなら引越し準備も特に必要ないもの。さて、明日の準備をしなくちゃ」イレーネは自分に言い聞かせると、早速出立の準備を始めるのだった――**** 翌朝六時――濃紺のボレロとスカート姿のイレーネが姿見の前に立っていた。「うん、いい感じね。我ながら洋裁の腕前が上がったわ。これが以前はドレスだったなんて人が知ったら驚かれるでしょうね」満足そうにくるりと鏡の前で一回転する。昨晩夜なべをして、外出着用の洋服に作り直したのだ。「どうせ、ドレスを持っていても着ていく場が無いのだもの。宝の持ち腐れだったから丁度良いわね」そしてイレーネはボストンバックを持つと屋敷を後にした――****午前七時半――「ふ〜……やっと汽車に乗れたわ」三等車両の空いている座席に座るとイレーネはため息をついた。今朝も彼女は路銀を浮かせるために屋
「もっとその詳しい求人内容を教えていただけないでしょうか?」身を乗り出すイレーネに男性職員はメガネをクイッとあげた。「はい、良いでしょう。え〜と、まず場所ですが……『デリア』という町ですね。この町から汽車が出ていますね」「『デリア』なら聞いたことがあります。あの町はここよりもずっと近代化の進んだ町ですよね? 確か汽車で三時間程ではなかったでしょうか?」「ええ、その通りです。勤務時間は……おや? 一応二十四時間体制とはなっておりますが、基本夜の勤務は殆ど無いみたいですね。けれど夜勤が入る場合は別途給金を上乗せしてくれるそうです。仕事内容は面接のときに教えてくれるそうですが……う〜ん……いかがいたしますか?」男性職員は少し首をひねりながらイレーネに尋ねる。「はい、構いません。ぜひ面接を受けさせて下さい」「ええ!? ほ、本当に受けるのですか? 全く仕事内容が不明なのですよ? しかも奇妙な条件ですし……」「面接に行けば詳しく仕事内容を聞かせてくれるのですよね? すぐに紹介して下さい」今にも住むところを失いそうなイレーネにとって、衣食住保証付きの高額給金の仕事はとても魅力的だった。あれこれと選んでいる時間も手間も惜しかったのだ。「分かりました……それでは紹介状を書きましょう。少しお待ち下さい」男性職員は傍らに置いた便箋に、スラスラと文章を起こすと封筒に入れてイレーネに差し出した。「はい、ではこちらの手紙を持ってマイスター伯爵家に渡して下さい。面接日時は特に細かい決まりはなく、平日の十時から十七時までの間に伯爵家に直にお越し下さいと書かれておりますね」「え!? そんないい加減……いえ、そんな大まかなことで宜しいのでしょうか?」イレーネは驚きで目を見開く。「もしかすると先方も早急に人手を捜しているのかもしれませんね。何しろ二百キロ以上も離れたこの町にも求人を出している程ですから」「そうですね。色々なにか事情があるのかもしれませんね。妙な質問をしていまい、申し訳ございません」謝罪の言葉を述べるイレーネ。「いえいえ、そんなお気になさらないで下さい。あ、そう言えば先程の求人欄で気になる箇所が書いてありました」「え? 本当ですか? 教えて下さい」イレーネは再び、身を乗り出した。「もちろんです。え〜と、口が固い方……秘密保持出来る方を望む、とあ
午前11時半――コルトの町の中心部に到着すると、ルノーは馬車を止めて扉を開けた。「町に着いたよ、イレーネ」そして手を差し伸べた。「ありがとう」ルノーの手を借りて馬車を降りたイレーネは目を見開いた。「まぁ、ここは……」「そうだよ、イレーネが来たがっていた職業紹介所だよ」「まさか、ここに連れてきてくれるとは思わなかったわ。ルノーは仕事が忙しい人だから、職場の近くまでで良かったのに」ルノーが務める弁護士事務所は職業紹介所よりもずっと手前にあるのだ。「何言ってるんだ。そんなはずないだろう? それに君のことだ。恐らく、途中で降ろせばここまで歩いてきていたんじゃないか? ドレス姿の女性を歩かせるわけにはいかないからな。大事なドレスを汚してしまったら困るのは君だ」「あら……分かっちゃった?」肩をすくめるイレーネ。イレーネは薄紫色のツーピースのデイ・ドレス姿だった。このドレスは数少ない彼女のドレスで、面接に挑むための外出着である。「大切なドレスまで大分手放してしまっただろう? もとからシエラ家は貧しい男爵家だったから、君は社交界デビューだって出来なかったじゃないか……今ならまだ間に合う。爵位を手放して、高額で金持ちの商人にでも売ってしまわないか? 俺に任せてくれれば、上客を紹介出来るぞ?」屋敷を手放すことに反対のルノーは最後の説得を試みる。「だから、それは出来ないって言ってるでしょう? ルノーは知らないの? 爵位があるだけで、好条件の仕事を紹介してくれるのよ?」「そんなことくらいは知ってる。仮にも俺は弁護士だぞ?」少しだけムッとした表情を見せるルノー。「幼馴染のあなたが私を心配するのは分かるし、その気持は嬉しいけれど……私は祖父の遺言を守りたいの。それじゃ行くわね。良い仕事が斡旋してもらえることを祈っていて?」「……分かった。行って来いよ」イレーネは笑顔でルノーに手を振ると、ガラス張りの回転扉をおして職業紹介所へ足を踏み入れた――****「え〜と……イレーネ・シエラさん……現在二十歳ですね?」イレーネの前にメガネを掛けた男性職員が、彼女の履歴書に目を通している。「はい、そうです」「……あぁ、なるほど……シエラ家……あまり聞いたことはありませんが男爵令嬢なのですね?」「確かにあまり名門ではありませんが、これでも貴族令嬢の嗜みは
イレーネ・シエラは今、とても追い詰められていた――「一体どうするつもりなんだ? イレーネ。このままでは後半月でこの屋敷は差し押さえられるぞ?」イレーネと幼馴染。弁護士に成り立ての栗毛色の髪の青年、ルノー・ソリスの声が部屋に響き渡る。何故、彼の声が響き渡るかというと、この屋敷にはほぼ家財道具が無いからであった。「ええ、そうよね……どうしましょう。まさかお祖父様が、こんなにも借金を抱えていたなんて少しも知らなかったわ。そんなに派手な生活はしていなかったのに……」古びた机の上には書類の山が置かれている。イレーネはブロンドの長い髪をかきあげながら書類に目を通し、ため息をついた。その書類とは言うまでもなく、祖父……ロレンツォが遺してしまった負債が記された書類である。「イレーネ、おじいさんを亡くしてまだ三ヶ月しか経過していない君にこんなことを言うのは酷だが……もう爵位は手放して誰か金持ちの平民に買い取ってもらおう。そうすればこの屋敷だけは残せる」「ええ。そうなのだけど……お祖父様の遺言なのよ。絶対に男爵位だけは手放してはならないって」イレーネは祖父の遺した遺言書を手に取り、ため息をつく。「それはそうかも知れないが……住むところを失っては元も子もないだろう? 大体君は病気で倒れたおじいさんの看病をするために、仕事だって辞めてしまったじゃないか」現在二十歳のイレーネは花嫁修業も兼ねて、エステバン伯爵家でメイドとして働いていた。しかし、半年ほど前に祖父が病気で倒れてしまったために仕事を辞めて看病にあたっていたのだ。「仕方ないわ。ソリス家はお金が無くて使用人たちは全員暇を出してしまったのだから。私がお祖父様の看病をするしかなかったのだもの。それにお祖父様は子供の頃に両親を亡くした私を引き取って今まで育ててくれたのよ? 遺言を無下にすることは出来ないわ」「だけど、君は今まで必死になって頑張ってきたじゃないか。家財道具を売り払って、おじいさんの治療費にあててきただろう? その結果がこれだ。もうこの屋敷には売れるものすら殆ど残っていないじゃないか。それなのにまだ五百万ジュエル以上の借金が残されているんだぞ? どうやって返済するつもりなんだ」ルノーはすっかりがらんどうになった室内を見渡す。「銀行から借りるっていうのはどうかしら?」イレーネはパチンと手を叩い